所在地」 奈良市高畑町921番地
近鉄奈良駅の南東約1.7Km(徒歩約25分)

頭塔

頭塔は東大寺南大門の南約950m、新薬師寺から約700mの位置に築かれた方形七段の土塔です。

古くより奈良時代の僧玄ム(?〜746)の頭を埋めた墓との伝説があり、その名の由来とされてきましたが、本来の土塔(どとう)がなまって頭塔(ずとう)と呼ばれえるようになったものと思われます。

(頭塔のパンフレットより)

往年の頭塔は第1・3・5・7・の奇数段4面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていたと考えられています。
そのうち28基が現在までに確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩が表されています。

頭塔の入り口

玄ム伝承と頭塔

生史・続日本紀は次のように書く。

「(天平十八年六月十八日)・・・ 栄寵日に盛して、稍く沙門の行いを乖けり。時の人これを悪めり。是に至りて、徙所(観音寺)にして死ぬ。世に相伝へて云は『藤原広嗣が霊の為に害はれぬ』といふ」

 続日本紀が撰上されたのは九七九(延暦一六)年だから玄ムの死から約50年。この半世紀の間に「悪僧・玄ムは広嗣の亡霊によって殺害された」との伝承が固まっていったのだろう。同じ大宰府で悶死した菅原道真の霊が崇るのは、さらにその約百年後である。広嗣怨霊説は御霊信仰の走りだったのかもしれない。

こんな話を後世の史家がほっておくはずもない。扶桑略記、今昔物語、源平盛衰記、元衰釈書 など時代を追って
洵されて行く。説話が具体化して、迫真性さえ帯びてくる。

平家物語(巻七)にはこうある。

「・・・・観世音寺、供養の導師には玄房(原文のまま)僧正とぞ聞えし。高座にのぼり、敬白の鐘うちならす時、

俄かに空かきくもり、雷おびただしく鳴って、玄房の上におちかかり、その首をとって雲のなかへぞ入りにける。

(広嗣を)調伏シタリけるゆへとぞ聞こえし」

話が面白おかしく付加されていった事がうかがえる。さらにつづけて「天平十九年六月十八日、しゃれかうべに玄房という

銘を書いて、興福寺の庭におこし、虚空にならば千人ばかりが声で、わっとわらふ事ありけり。

興福寺は法相宗の寺たるによって也。彼僧正の弟子共是をとって塚をつき、その首におさめて頭墓と名付け今にあり」

一周忌に合わせて妖怪変化を登場させている。真偽とりまぜて格好の読み物に仕立てる手法である。

この『頭墓」というのが現在の『頭塔」を指す。

「玄ムの首が落ちたところが頭塔、腕の落ちたところが肘塚町(かいなづか)眉の落ちたところが大豆山町(マユ→マメ)、

胴の落ちたところが高畑町の胴塚」とのいい伝えがある。

妖怪伝承が具体的な地名説話になったのだろうが、この頭塔が東大寺南大門のほぼ南1キロメール、

福智院から東へわずか250メートルに位置するのが注目される。

頭塔は国の指定史跡。発掘調査が1978(昭和53)年から奈良国立文化財研究所によって続けられている。

奈良県の復原整備は1992(平成4)年からはじまっているが、いつ完成するか見当がつかない。

それほど大規模なピラミッド型の七段土塔である。一辺32メートル、高さ1.2メートルの基壇上に、順次に小さい壇を方錐台形に

積み上げている。頂上までの高さは約10メートルと実に壮大なものである。

多数の天平石仏があちこちに配置され、数百点の出土瓦は東大寺式。中心に心柱をおき、七段目の上に木造の塔身と九輪があったとされる。

奈文研が復原想像図を二種類描いているが、観光資源としても非常に貴重なものになることだろう。

この頭塔は「東大寺別当次第などから、767(神護景雲元)年、良弁の命を受けた実忠によって造立されたというのが定説化している。

玄ム没後二十二年。道鏡が権力をふるっていた。恵美押勝(南家の藤原仲麻呂・武智麻呂の子)の乱を制した天皇称徳が十大寺に寄贈する

百万塔をつくらせたときである。玄ムの首塚というのはあくまで俗説なのだろうか。      (福智院の由来記より)